想像力との格闘

2005-05-15
なんだか過分に褒められている気がして恐縮です。村上春樹の小説はまるで象徴のかたまりのような話ばかりで、読者によって一つ一つの象徴の解釈が異なると思います。
ですから、結局のところそれら一つ一つの異なった解釈をかき集めて総体としての結論を見出すことなど、不可能に近い話です。しかし、だからといってそこで思考を停止していたら、この人の小説は楽しめないでしょう。(上辺だけの言葉に惹かれて村上春樹の作品を好きになった人は、最近のこの人の小説は楽しめないと思います。そういう人は一生ノルウェイの森ダンス・ダンス・ダンスでも読んでいればよいんですが)
村上春樹の小説は何も具体的なことを書いていません。しかし、読者の解釈によっては、すべてが書かれているのです。
スプートニクの恋人」でいうなら、作者は最後に主人公とすみれが再会できたという結論を出していません。作者は何も結論を出していません。読者は何も確かなことが得られていないのです。
しかし、読者が「すみれはきちんとあちら側の世界から帰ってきて、最後の最後で劇的な再開を果たせたんだ。」と思うのなら、それは本当に起きていることです。すみれは正確に生きていて、本当に自分がいるべき場所を求めて帰ってきたのです。
別の読者が「すみれはもう帰ってこれないんだ。」と思えば、それも正確に、1ミリのずれもなく、そういった世界が存在します。
村上春樹のすごいところは、こういった抽象的なレベルでビジョンを描けることです。もう一つは、それだけの無理難題を、とてもシンプルでプリミティブ(基本的)な言葉でわかりやすく表現していることです。
それに加えて「ナイン・インタビューズ」や「村上春樹河合隼雄に会いに行く」その他のエッセイなどを読んでいると、村上春樹っていう人物はとんでもなく頭が良い人なんだなあ、と感じます。
村上春樹の小説全体を一つの象徴として考えると、『想像力のあるところに、世界ができてゆく。』みたいな感じです。あれ、、なんだかとても陳腐な言葉ですね^^;
本当はもっとかっこよくきれいにまとめたいんですけどね。なかなかそこまで行くことができません。頭で考えていることを言葉で表現しようとした瞬間、意味の大半が零れ落ちてしまいます。村上春樹はその意味が零れ落ちないように、直接的な表現さけることによって、輪郭を際立たせるという書き方を綿密に計算して書いているように感じます。
村上春樹の小説を読むということは、そういったこととの格闘でもあると思うのです。