救いがない

少し前に漱石の「こころ」を再読した。この本を読むのは2回目である。最初に読んだ文章を2回目ではなぞるように読んでいくことで、新しい発見や深い味わいを見つけ出したりできる。
当然のことながら、「こころ」も同じような味わいを感じたり、発見をした。そして思った。
「すくいがない」
「こころ」という物語は、先生と呼ばれる人物を私という主人公からの視点で描いている。3部構成に分かれていて、先生との出会い、私と両親、先生との遺書、という形で構成されている。
この物語の一番の核心の部分としては、やはり先生が遺書の中で語っている、先生とKとの哀しい関係だろう。そのことがきっかけで先生は最終的に自らの命を絶ってしまう。そこでぼくは感じた。
「死ぬしかなかったのか?他に方法はなかったのだろうか」
曲がりなりにも先生はお嬢さんと結婚して、幸せな家庭を築いていたはずである。それならそれで良いじゃないか、死んでしまったKのためにも生きるべきだと考えても良かったはずだ。
ぼくは別に人の死が嫌だとかそういったことを言いたいわけじゃない。ただ先生がKの自殺から20年以上もお嬢さんと一緒に暮らしてきているのに、その結果として、死という判断しかできなかったのが、救いがない、と感じたのである。
先生は遺書の最後の最後のこう結んでいる。

私は私の過去を善悪とともに他人の参考に供する積もりです。然し妻だけはたった一人の例外だと承知してください。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなたの限りに打ち明けた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい

妻のことをそれほど想っているのに自殺という選択肢をとった。そこまで追い詰められるものがあったのだろうか…。