今週に入ってから、仕事が忙しくなってます。。><
お返事遅れてすみません。

# yagian 『村上春樹の年譜見直してみました。たしかに、ねじまき鳥の第2部と第3部が転機になっていますね。
以前のウェブログで、「スプートニクの恋人」についてかかれていましたね。私のつれあいの説は、すみれはすでに死んでいて、異界から電話だというものでした。私は、死んだかもしれないということは思いつきませんでしたが、すみれと再会できる必然性が見あたらないという消極的な理由で、再会できない方に一票です。』

主人公がギリシャを訪れたときに遭遇した丘の上の音楽。それがとても象徴的な意味合いを持っているとぼくは考えていて、すみれと主人公を結びつけるしるしになるのでは、と思います。
村上春樹の作品によく使われる設定として「あちら側の世界」と「こちら側の世界」みたいな感覚がぼくの中ではあります。「世界の終わりと〜」で表現される壁で囲まれた街や「海辺のカフカ」で兵隊が守衛をしている森の奥深くの世界。スプートニクで言うなら、本当のミュウがいる世界。
問題は、すみれは「あちら側の世界」に行ってしまったのか。もしそうだとしたら、物語の最後で「こちら側の世界」へと帰ってこれたのか、ということです。
この物語の中で何が象徴的な意味で使われているのか、何が記号的な意味として使われているのか、そこに一方通行の関係なのか、往復可能な関係なのか、を見出して答えを導いてみると面白いのかもしれません。
村上春樹スプートニクの恋人を、従来の小説と結論は同じにしているが、ポジティブな要素を積極的に取り入れて、今までにない希望を持たせた小説を書いてるなあ。(最終的にすみれと合えたという事実がない限り、結論は常に後ろ向き)」みたいな感じで、物語とは直接関係のないところでぼくは考えてしまっていますが。。。
むー、結局どこまで行っても最後は想像力の問題なんですけどね^^;
すみません、ぼくの頭では上手にまとめられませんでした。